ヨーロッパコース 教員
中野 幸男(ナカノ ユキオ)
英語表記 | Yukio NAKANO |
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職名 | 准教授 |
研究者情報 | 研究者データベース |
学生へのメッセージ
学校という場所は特に好きではなかったのですが、大学にずっといます。大学という場所よりも図書館が好きだった気もしますし、人付き合いが全くなかったような私でも何十年も経つと世界各地に友達がいます。本は家に文字通り山のように積もって足場もないくらいなのですが、本の歴史が私の歴史という気もします。本棚を見るとその人がわかるといいますし、ジロジロ見られるのを嫌がる人もいます。装丁が好きな愛書家ではないので、読んだ本の中身の記憶が連鎖的に私の偏見を作っているのだと思います。本は捨てる際には長年読んでいないものを捨て、読んだものを残す気がします。
楽な方に流れるということがあり、大学時代くらいだと特に嫌なことはしなくてもいいので、授業が嫌なら出なければいいだけですが、出ないと卒業は遠のきます。そのため、最低限度の努力をしながら卒業していく人がほとんどです。小中高のようにクラスが固定されていたり、当番が回ってきたり、協調性を求められることもないので、大学時代は楽だと思っていました。学生を見ていても個人差が大きく、帰る人は秒で帰りますし、残る人は延々と大学に残っています。サークルで卒業を危うくする人もいれば、まったくサークルもバイトもせずに授業だけ出て卒業する人もいます。
大学時代もその後も現在の学生がしているグループ発表というのを私は一度もしたことがなく、芸人のコントでしか見たことがありません。また、グループディスカッションというのもしたことがなく、それぞれグループで話し合って暫定的な結論やブレーンストーミングの結果を出すというような授業の記憶がありません。大学などで受けた語学教育もまったくコミュニカティヴではなかったので、羅列と暗記の延長線上のせいぜいスピーチくらいでした。詩の暗記をさせられたのは良い経験でした。これまであった詩人で印象的だったのは原稿を見ない男で、その男は迷彩服を着ていたのですが、大声で自信たっぷりに自分の詩を暗唱していました。
大学時代は「死の教育」という授業が印象に残っていて、二人組になって一つの鉛筆を持ち、絵を描きます。そして絵が描けた人は手をあげてくださいと言われ、何人かは手があがります。結果的には協力の難しさ、のようなものを伝えていたのだと思いますが、二人で一つの鉛筆を持って絵を描く場合、片方が力を抜いて、片方が力を入れて絵を描いたに決まっています。それを「協力」と呼ぶかどうかという問題がそこには隠れていたのだと思います。押しの強い人は「協力の成果」というのかもしれないな、と思いました。卒論指導も研究室で鍋を食べることだと思っていて、5限が終わると食材を買いに行って狭い部屋で鍋を食べて帰っていました。同志社のような綺麗な建物だと難しいかもしれません。
その後もいろいろな国の大学に通いましたが、ロシアの試験はくじ引きでしたし、寮生活だったのでいろんな国の文化を知ることができました。アメリカの大学ではみんなでピザを食べながら映画を見たり、ランチ・ミーティングという日本にあまりない無償の食事が振る舞われる会議というものにも初めて出席しました。長年研究を続けていると、いろんな場所であった人がのちにつながったりします。会議で一緒だったフランスの院生に亡命ロシア作家を紹介してもらったり、同じ部屋で学んでいた中国人の院生たちも今では北京大学や清華大学で働いています。ロシア民謡を一緒に歌っていた人たちは全米各地の大学の先生になっていますし、何十年も続けていると、不思議と会わなくてもつながったりするものです。
本に命を救われた、という経験はもちろんありません。私の上の世代は文体で文学愛を表現するので、文学によって命を救われた人が結構いる気がします。灘千造というシナリオライターは、戦時中、長白山脈の山岳地帯で東北抗日連軍のゲリラ部隊と関東軍で戦っている時に、胸ポケットに入っていたドストエフスキー『罪と罰』がクッションとなって、銃弾が胸を貫通するのを防いだそうです。そんなことあるかなとも思いますが、これがシナリオライターなのかもしれません。文字通り「文学に命を救われた」という話です。この本は戦後の混乱で失われたので、物的証拠もなくなっています。
文学研究も今はアーカイヴの時代であらゆるものを疑うので、作者かどうかも疑いますし、それがボールペンで書かれたのか、鉛筆で書かれたのか、タイプライターか、さらにはパソコン時代になるともっと著者かどうかという問題は深まります。ロラン・バルトは万年筆が好きだったそうですが、パソコン全盛で日本人全体が漢字を忘れている時代に、フェティッシュな奇人的な趣味かもしれません。ノートに書くのか、紙の切れ端に書くのか、朝書くのか夜書くのか、家で書くのかカフェで書くのか、木が見える部屋で書くのか、そういう「どうでもいい些事」が好きで多くの本を集めて読んできました。ドストエフスキーの流刑時代の聖書には爪の跡がありますが、その跡も読み取られています。フーコーが関心を持っていたロシア国内の精神鑑定の政治利用は今も続いています。文体鑑定も実は続いていて、先日もラッパーのリリックを国立大学の教授が鑑定していました。
ウクライナの作家スリヴィンスキーの『戦争語彙集』にロバート・キャンベルがウクライナで講演をし「平和」の話をした時に、現地の学生から「勝利」で置き換えてくださいと請われるシーンがあります。実際にウクライナの「勝利」とロシアの「平和」は繰り返されるたびに温度差を感じるもので、年末年始も同じ温度差が各地のコメントで繰り返されていました。ロシアのテレビを見ていても、平時と全く変わらない、プロパガンダ番組が毎日のようにあっていて、前と同じようにバラエティーではDNA鑑定で親子の縁を切ったりしています。平時のよう、というのは戦争という文脈を入れるとそうではない読み方になるのですが、言えないことを別の伝え方で伝える、という伝統的なロシアの文学のあり方が露骨に出ている時代のようにも感じています。同じニュースを国内と国外で比較しても、流れる情報も解釈も異なっており、そういう解釈の不一致がポストトゥルースの時代の不信感としてあるのかもしれません。
ブロツキーという詩人は亡命してミシガン大学のPoet in Residenceをしていたのですが、のちにアメリカで教壇にも立ち、彼は英語もそんなにできないのにどうやって授業をするのか、と尋ねられると「私は文学が好きだし、彼らも文学が好きな同じ人間だ」と言っていました。
「人間」
というのは共通点としてはかなり浅いところで、そこまで到達すると文字通り人類全体が兄弟のようなものです。割と若い頃は「生と死」とか「人生の意味」とか大きなことを考えながら、小さな庶民的な生活を送っているものだと思いますが、今になってみると、若者時代の人生の細部の経験が聞いていても1番面白い話題だと思います。数十年後に回想する部分というのは同じ場所にいても人によって全く異なるものです。
プロフィール(経歴、趣味、等)
1977年福岡県福岡市生まれ。男子校でぱっとしない時代の千葉の市川高校を卒業した後、浪人したために駿台予備校を経て、東京外国語大学ロシア語科に入学。同大学卒業後は同大院で仮面浪人。神保町でイタリア書房のバイト店員をしたのち、東京大学大学院に入学。憧れの東大でも最低限の授業に出ただけで、日本橋の丸善でバイト三昧。アルバイトは他にもテレビの観客、交通量調査、首都圏のアンケート調査、アパレルのセール設営などをし、大学院時代はNHKの放送モニターで小銭を稼いでいた。博士課程進学後は運よく文部科学省長期留学生派遣制度を貰いモスクワ大学に3年間留学。初めて研究者らしい生活をするようになる。帰国後は思ったほど反響も職もなく派遣社員として働き、単位取得満期中退。その後運よく学振PDを取れたためにスタンフォード大学スラヴ科でVisiting scholarとして1年半過ごす。帰国して学振終了後は島根県立大学で英語の嘱託助手として勤務。その後、東大研究員、関東学院大学非常勤講師などを経て現職。
映画は好きです。敬愛するメル・ブルックスの『プロデューサーズ』や『サイレントムービー』といった笑いは現代でも必要なもののように感じます。ロシアの監督ではアンドレイ・ズビャギンツェフが好きです。『女狙撃兵マリュートカ』『一年の九日』『鬼戦車T-34』や『人生案内』などソ連映画のダサさが好きです。2022-3年のアカデミー外国語映画賞のウクライナ戦争関連映画も重要です。アニメもマンガも好きです。アニメはデアラやFateを追っています。マンガは山本さほ『岡崎に捧ぐ』や松田洋子『まほおつかいミミッチ』のような作品が好きです。楳図かずおに最近惹かれるものがあり、読み続けています。『4年後がこわい』のような作品や『おろち』が好きです。ホロライブは株主なので配信を見ています。音楽も好きです。ロシア留学時はワレーリー・メラゼばかり聴いていました。研究会の関連もありロシアのヒップホップも聞いています。音楽制作もしたいと思っていてSpliceの素材をLogic Proで貼り付けて曲を作っています。K-POPはQWERのようなアニソン風のバンドが好きです。
福岡のような田舎の中学校は部活がほぼ義務なので剣道を幼い頃からしていました。今でも剣道と柔道には思い入れがあり時折見ています。
研究内容
専門はロシア亡命文学。博士論文までのテーマは学部時代からずっとアンドレイ・シニャフスキーというソ連の反体制作家です。国内外で作家の知人に会い、インタビューを取り、アーカイヴ資料を見ながら二つの異なる博士論文をモスクワ大学と東京大学に提出、学位を得ました。主にアンドレイ・シニャフスキーは1970年代の「第三の波」と言われる時代の亡命作家である共とに1990年代はソルボンヌ大学教授としてソルジェニーツィンに並ぶ存在感を持つ知識人でした。1990年代以降「ロシア亡命文学」も大きく変わり、国境を行ったり来たりする作家も増えています。最近ではロシア語話者が英語やドイツ語で書くtransnational/translingual literatureと言われるような文学先品も増えてきています。
最近の関心は、このtransnational/translingual literatureと映画など他メディアの展開の研究です。国外で発表し続けているのは、アーカイヴ資料を基にした20世紀ロシア文学史の再考で、ブルームズベリー・グループと深い関わりを持ったドミトリー・ミルスキー、ジョージ・オーウェルに『1984』のアイディアを与えたグレープ・ストルーヴェ、パウル・ツェラーンやジャン・スタロヴァンスキ、イニャツィオ・シローネの友人でありフィレンツェで学位を取ったマルク・スローニムなどの文学研究者/文学史執筆者について調べています。「ロシア文学史」あるいはロシアにおける「文学史」そのものについての変化についても関心があり調べています。アーカイヴ資料を使ったザミャーチンやマルク・アルダーノフの研究も発表しています。最近ではロシアにおける日本文化の受容やロシアの現代文化について執筆し、「ソ連の」インターネットや精神医学について調べ、ウクライナ戦争後は、ロシアの反体制ヒップホップについて発表をしています。
主要業績
- 論文・研究ノート
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- 「B・エロフェーエフ『酔いどれ列車、モスクワ発―ペトゥシキ行』」(水野忠夫編『ロシア文学:名作と主人公』自由国民社、2009年、作品解説)
- 「亡命ロシア文学研究者 グレープ・ストルーヴェ研究」(『境界研究』第1号、2010年、145-164頁、研究ノート)
- "On the History of the Novel We, 1937-1952: Zamiatin's We and the Chekhov Publishing House." Canadian-American Slavic Studies 45, 2011
- «Американский период Марка Алданова» // Новый Журнал. №286. 2017.С.309-15.
- 「ロシアでのマンガ・アニメの受容と若者文化」(『ユーラシア研究』57号、2018年、49-52頁)
- 「サミズダートとインターネット:ナターリヤ・ゴルバネフスカヤのLiveJournal」(『Slavistika』XXXV、2020年、329-41頁)
- Переписка И.Бунина и А.Бахраха // Новый Журнал. №303. Нью-Йорк, 2021. С.325-31.
- 「アンドレイ・ドナートヴィチ・シニャフスキー/筆名アブラム・テルツ『おやすみなさい』」(『ロシア文学からの旅』ミネルヴァ書房、2022年、120-1頁、作品解説)
- 「アンドレイ・シニャフスキーと「狂気」の言説――ロシアにおける精神医学と刑罰――」(『GR 同志社大学グローバル地域文化学会紀要』、第19号、2022年、35-58頁)
- 「亡命ロシア文学史におけるマルク・スローニム」(『GR 同志社大学グローバル地域文化学会紀要』、第21・22号、2024年、19-45頁)
- 翻訳
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- アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』(みすず書房、2013、共訳)
- オーランド・ファイジズ『ナターシャの踊り ロシア文化史』(白水社、2021、共訳)
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