ヨーロッパコース 教員
高木 繁光(タカギ シゲミツ)
英語表記 | Shigemitsu TAKAGI |
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職名 | 教授 |
研究者情報 | 研究者データベース |
学生へのメッセージ
よく海外旅行から帰って、日本食を食べながら、「ああ、やっぱり日本が一番だ」とつぶやく日本人がいる。ならば最初から外国へ行く必要はなかったのだ。これから外国の文化を学んでゆく皆さんは、外国に関する表層的な知識を得ただけで、「やはり日本が一番」と安堵するような旅行者にはどうかならないでほしい。花田清輝という評論家がこんなことを言っている。「戦争中、日本主義者の繰り返していたように、もしも日本的なものと西洋的なものとが、完全に対立するものなら、日本的なものの姿は、日本的なものが、西洋的なものと断絶し、おのれのなかに閉じこもることによってではなく、かえって、正反対な極点に、――西洋的なものの立場に立つことによって、はじめてあざやかに浮びあがってくるであろうが、――しかし、それは、もちろん日本的なものが、西洋的なもののなかにあって、おのれを失うことではなく、おのれ以外のものでありながら、しかもおのれ自身でありつづけるということであった。」(全集第4巻、講談社、1977年、41頁)少し難しい言葉だが、これから勉強していくなかで、その意味を考えてほしい。外国かぶれになるのではなく、日本主義者になるのでもなく、和洋折衷にとどまるのでもなく、「Aが、Aであると同時に非Aでもあろうとするときの困難」から出発してほしいと、花田は述べている。
プロフィール(経歴、趣味、等)
高校時代にヘルマン・ヘッセが好きだったことから、大学ではドイツ文学を専攻、その後、比較文学研究に進み、修士論文ではドイツ語圏の詩人パウル・ツェラーンとロシアの詩人マンデリシュタームについて論じる。一九九六年に同志社大学言語文化教育研究センターに赴任してからは映像文化領域に対象を広げ、映画と近代以降の文学・思想の関係に重点を置いて研究をおこなっている。ツェラーンは現在のウクライナ南部の街チェルノフツィに生まれたドイツ系ユダヤ人で、子供の時からドイツ語、ルーマニア語、ウクライナ語、ポーランド語、ロシア語に囲まれて育った。ナチスの時代を生き延びて、ブカレスト、ウィーンを経由してパリに移住し、50歳で死ぬまで外国語の中で暮らしながらドイツ語の詩を書き続けた。いくつもの言語の境界を越えて生きた詩人の作品を読むことと、世界の様々な言語の映画を観る=聴くという体験は、どこかで通じているのかもしれない。
研究内容
ドイツ・ロマン主義の時代には、機械と人間の関係が次第にクローズアップされてゆき、ロボットによる人間の代替、二重人格など分身に関わるテーマが重視されてゆく。20世紀初頭になるとニーチェの哲学や、フロイトの精神分析によって反復、仮面、コピーをめぐる思索が深められるが、その強い影響下に展開した表現主義芸術運動においても、無意識の領域の投影としての自我の分裂、夢遊病などが頻繁に取り上げられる。それは20世紀の発明である映画と結びつくことによって、今日の複製技術時代を考える上で重要なテーマとなる。映画はなによりも反復と結びついた芸術=産業である。それはリメイク=同じ物語の反復であり、すでに存在しない過去の出来事の再現であり、何度も繰り返されるテイクの寄せ集めである。映画の反復という特性を、ドイツ・ロマン派以降の思想、文学との関係において考えてみたい。
主要業績
- 「ファスビンダーとナボコフ――<似ていない>分身を求めて――」、
『言語文化』第14巻第1号、同志社大学言語文化学会、2011年8月、43‐68頁。 - 「ベルリンと映画―二つの零年をめぐって―」
『言語文化』第8巻第2号、同志社大学言語文化学会、2005年12月、355-379頁。 - "Der Automat. Die Macht der Zweideutigkeit"、
『ドイツ文学』第128号、日本独文学会、2005年、52-69頁。
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